何だっけ

今日も店長と意思疎通できてなかったし、そのせいでくだらないミスをした。そんなことで自尊心が傷つくのがくだらないし、社内のみんなの気持ちが見事にすれ違ってるのもくだらない、そういう気持ちにだんだんなってきた。 

くだらなさが怒りにつながる人間もいるし、諦めにつながる人間もいて、おれは後者だから現状を打開する気なんてさらさらないし、ただ毎日をやり過ごして生きているだけだ。

小説を書いているんだけど、とてもとても難しい。書くたびに、敗北感に打ちひしがれる。無力感が胸をじんわり犯していく。何が、テクストを小説にするのか。ブログになくて小説にあるものは何か。どうすれば目の前のテクストは小説になるのか、何が必要なのか。

そういうことを考えて、考えながら、書いている。

わかる 身につく

免許更新のための講習に来た。はじまるまでの15分くらいでこれを書く。

 

さいきんは面白いくらいに眠り、面白いくらいに精神的に安定している。店長に何を言われても流せるし、たとえ苛ついても、あ今自分は苛ついてるな、と思うことで落ち着ける。とても良い。でも、ふと思う。これは安定なんかではなくて、感情の鈍麻なのでは?、と。

しかしその鈍麻が心地良い、無用に傷つかなくても大丈夫という状態は素晴らしいよ。

きのうのよるは、割と辛めの麻婆豆腐と、9℃の缶チューハイで気分も世界も旋回。川上未映子穂村弘の『たましいのふたりごと』、それから川上未映子の『夏物語』を読んでいるうちに、9時半ころには眠った。一度目を覚ますと11時、でも諦めて眠り、ふたたび目を覚ますと2時だった。歯を磨いて、『夏物語』のパラパラと読む。星雲みたいな、という比喩が善百合子の描写と、自身の出産シーンで用いられていることに気がつく。これは、なにか繋がりがあるのだろうか。2年前、ちょうど『星雲』というタイトルの小説を考えていたことを思い出した。

講習のはじまる時間まで、まだもう少し時間がある。続々と受講者が集まってきた。

 

 

大館に帰ってきて、ブックオフに寄って帰る。ブックオフには昨日も寄ったけど、落ち着いて棚を見れなかったから再度寄った。40分くらいいたと思う。100円コーナーを、掘り出し物がないか探す。

お金がなかった大学・新卒時代、よくブックオフで本を買った。懐かしさが込み上がる。大学4年のお正月、たしか1月2日だと思うけど、新田のブックオフまで歩いて行った記憶がある。外は寒かったが、自分で自分を温めるように強く歩いた。新田は大学1年の頃にバイトした塾があって、大学生活のはじまりから、今まさに卒業しようとしている現在までの4年という月日のことを考えずにはいられなかった。4年前ここを通っていた自分と、いまの自分とで、何が変わり、何を得て、何を失い、そしてこれから俺はどこへ行くのか。そんなことを、新田のブックオフやその行き帰りで感じた。

新卒で入社した出版社では、「ブックオフは書店じゃないだろ」と言われた。そのとおりだ。出版社で働いている自分がブックオフに通ってしまうということの罪悪感、後ろめたさ。それを感じながら、しかし喉から手が出るほどに本を買わなければ生きれなかったから、ブックオフで買っていた。

大館のブックオフでは、お金にまつわるコミックエッセイを108円で買った。書店で見かけて、気になっていた本だった。初版は10年近く前だけど、長期で売れているそうだ。最近も書店で面陳されていたから、たしかに売れるのだろう。

ちなみに昨日は小山田浩子『穴』を買った。『穴』、大学1年のときに新品で買ったけど、いつかの引っ越しのタイミングで処分していた。所沢の部屋でベッドから本棚を見上げると、いつも『穴』の力強い字体の背表紙が見えていた。夏を思いだす、黒い表紙。その表紙がふたたび手元に戻ってきた。

明日からまた仕事が始まる。憂鬱だ。絶対に幸せになるんだという気持ちを思い出そうとして、すこしだけ思い出せた。

エアー

寝起きの不鮮明な視界。昨夜、コンタクトを外すことなく眠った。

 

昨日は五所川原の友人Kと遊ぶ。Kが、俺の誕生日プレゼントにウイスキーを用意してくれたり、雲丹を取り寄せてくれた。本当に嬉しかった。こんな俺に、いいのだろうか。申し訳なく思った。どこか自分事に感じられなかった。感謝の気持ちしかない。

酔いながら、過去のカメラロールを見返して、Kに見せた。主に出版社時代の写真。よくわからないけど、絶対に幸せになろう、という気持ちになった。やってやるよ、自分の人生、というような。

いま、その気持ちは消えているのだけど、そのときの感覚は思い出すことができる。気持ちに付随する感覚、気配、空気感のような、もの。気持ち以前のそれを、俺は思い出すことができる。 

特急つがるに乗って大館に帰る。窓の外を過ぎ去っていく田園風景を見ながら、何かよくわからないものを渇望する気持ち、灼けるような飢餓感を抱く。

裸足

じめじめした電車内でこれを書く。

 

昨日は職場の飲み会だった。頭がぼーっとしていて、コミュニケーションエラーといえばいいのか、上手に会話できなかった。

嫌いな食べ物の話になり、「鶏のレバーが駄目なんです。きりたんぽとかに入ってるやつ、いやでも、鶏のレバーが駄目です」と言ったら、店長から「でも砂肝は大丈夫でしょ?」と言われる。そう。そうだった。砂肝は食べれる。鶏のレバー全般が駄目なわけではなかった。単純に、忘れてた。食べれる「鶏のレバー」もあることを。恥ずかしくて、はぐらかすために、「砂肝って鶏でしたっけ?」と言ってしまったのもよけいに辛いし、苦しかった。

小説の話もした。どんな小説が好きなの?と聞かれて、「あんまり起承転結がないもので、、、よくわかんないまま終わるやつで、、、」と言った。好きな作家は?と聞かれて、「保坂和志とか、、、」と答えた。本当のこと。本当のことなんだけど、本を読まない人しかいなかったから、こういう話をするのが厳しかった。どうしてかわからないけど、自分は駄目な人間です、と申告している気分になった。

とにかく嫌な時間、空間だった。帰ってきてから気化熱さんのツイキャスを聞きながら寝落ちた。

デジタル島モグラ

うとうとしながらこれを書く。

 

今日は十分に睡眠をとったから頭が冴えていた。店長ともうまく会話できたと思う。毎日こんなストレス量で済めばいいのに、と思った。何を考えるにしても、何を思うにしても、どう体を動かすにしても、周囲が澄み渡っていて、遠くまで見通しがきいた。見通しがきくと、先回りして行動したり、優先順位付けが上手くできたりした。

帰りは土砂降りの雨が降っていた。午前のラジオでも、今夜東北地方で大雨、と話していた。大粒の雨に打たれながら、車のある駐車場まで走ったり、運転したりするのが、楽しかった。今も聞こえる雨の音が本当に心地よい。雨の日の土曜日が好きだ。

ずっと雨の打ち続く音を聞きながらスマホをいじってTwitterを見たりYoutubeを見たりしていると、よけいに雨の感慨が浮彫になってうれしいし、ちょっと強くなれたような気分になる。古代の、雨を凌ぐために洞窟で過ごしていた人々も、こんな感慨を感じていたのだろうか、だとしたらうれしいし、死ぬのが怖いなと思ったりもした。