何故

値札の張替えの作業中、なんとなしに店長に「10パーの値札に変わってるのってどれですか?」と聞いた。そしたら、「私はここからここまでやってる途中。…で、それをきいてあなたは何をしたかったの?」と聞かれる?

はい?別に意図なんかない。

だから、「いや特に…」と答えたら、笑われた。

なんなんだろう、あの人。

なぜそんなことで笑うんだろう。

値札の張替え作業はみんなてんでばらばらにやっていて訳がわからなくなってるんじゃないのだろうか?俺は誰がどこまでやっているのか把握していないから、確認したかったのだ。

そしたら、続けて店長が「そんなことはいいからその三角作るのさっさとやって」

…自分がぜんぜんやらないから俺が手伝ってるのに、その言い方はなんなんだよ。アタマおかしいんじゃないのか?

理解に苦しむ。

魔女の一撃

正確にはぎっくり腰ではないけど、尾てい骨のあたりがすごく傷んで、二日間ほぼ寝たきりだった。こんなにベッドに寝ててもいい時間が与えられたことが、久しぶりだった。あぁ、寝ててもいいんだ。むしろ、寝ていることが推奨されているんだ。そういう機会に見を置くのは、いつ以来だろう。腰に激痛が走るのを加味しても、贅沢な時間だった。

そこまで考えて、あれ?と思った。

休みの日、べつに健常でも、ずっと寝てていいはずだ。自分の時間なんだから、その時間で何をしようと、誰にも咎められないはずだ。今までの休みの日、自分は何をしていたのだろう。ひたすら、小説を書かなければという焦燥感に追い立てられ、そこから逃げるためにスマホをいじったり読書をしたりしていた。でも、違うのだ。休日なんだから、まずは休むべきなのだ。いや、休む「べき」というのでもない。したいことを、すればいいし、なんにもしたくなかったら、なんにもしなくていいのだ。ずっと寝てていいのだ。

この二日間は、千鳥の動画をずっと見て、笑っていた。

ぜんぜん

眠い。猛烈に眠い。瞼が、頭がもったりどんよりしている。あまりの眠気に頭が心地よく痺れさえしている。すべてがどうでもよくなる。

 

A 中の荷物が来たら、それをすぐに届けることになっていた。しかし荷物はなかなか来なかった。店長の指示を仰ぐことにした。

 

お疲れさまです。あの、A中の荷物こないんです。運送がい

「B運輸来なかった?」

きてないです。あの、運輸がい 

「あっそう。え?何どうぞ」

あ、あの運送会社に連絡して確認したほうがいいかと思ったんですけど。

「だって送り状の番号わかんないじゃん」

あ、そうですね

「うん、とりあえず代わりのものは貸してるし、大丈夫だよー。店開けてください」

 

うーん。今朝の一コマ。

店を開けるのは、わかった。当然だ。もう開けてる。

それで、肝心の荷物はどうすればいいのか。待てばいいのか(待つしかないのだけど)。荷物が来たら、A中に向かってもいいのか。何時まではそういう判断で良くて、何時からは違う判断になるのか。自分の言葉さえよくわからないけど、とにかく、荷物をどうするかに言及されなかった。そのことに、とても動揺した。

 

さいきん、頭がボーっしていて、自分が自分じゃないような気がしてくる。思考のポイントが、店長と大きくずれている。

 

 

 

心当たること

仕事に行く前の朝の時間で書く。

 

・言われたことを忘れてしまう。何かの作業をしているときに、別の作業の注意点というか指示を受ける。していた作業を完遂して、指示を受けた作業に取りかかる。すると、さっきうけた注意点を忘れてしまう。

 

・抽象的な指示が理解できない。お願いします、と言われて、それがどこまでやるのかわからない。

 

・急な予定変更にパニックになる。

 

・体の動かし方。どんくさい。ものをこぼしたり、ぶつけたりする。

 

 

ラム

日曜日の夜、明日の仕事のことを考えてすでに辛い、部屋の机の上の持ち帰った仕事を診て胸が、ずんと重くなる。

ここ数日、自分はもしかすると発達障害なんじゃないかという気持ちが強い。仕事での細かいミスや、コミュニケーションの齟齬があまりにも多すぎる。気を利かせてやっておいたのに間違っていたり、年号が平成のままになっていることに気が付かなくて印刷してしまったり、店長の言葉の意味を勘ぐりすぎてパニックになったり。仕事を先送りにしたり、メモを取ることを忘れてそのまま伝達しなければならないことを忘れたり、複数の仕事を同時にやっているときにお客さんが来て問い合わせがあると何をしていいのかわからなくなったり。

一度、病院で検査してもらった方がいいのかもしれない。

さいきんは発達障害の転職や職業訓練のことを調べている。やっぱり地方には発達障害専門の転職エージェントは無いし、支援所もない。そういうのは都心に集まっていて、東京の生きやすさを実感する。

生きるために再び東京に行くという選択肢もしぜんのぼってきていて、何をどうすればいいのか、お金はどうすればいいのか、食べ物は、寝るところは、ということが全くわからず、自分の意志さえわからなくなる。

とにかく病院に行って検査してみないことにはなんとも話が進まない。