日向夏

朝にこれを書く。

 

店長と、うまくコミュニケーションがとれない。言葉が通じない。あちらの言うことが聞き取れない。話がいきなり飛躍する。

そういう人はテキトーに流せばよいと多くの人は言うが、業務上、連携することが多くあるのでとても大変でストレスがたまる。

嫌われてもいいから、必要と思ったことは、質問する。そうしないとこちらがミスしてしまう。その質問が他意をもったものと受け取られることもあるけど、それはあちらの勘違いだし、気にする必要はない。

心のなかではそういうふうに考えようとはしている。しているのだけれども。

町屋良平「しずけさ」読んだ。

棟方くんのゆううつと、自分自身のゆううつはまったく別種のはずなのに、それでも共感してしまった。ゆううつを優しく書いてくれたことで、少しだけ救われたような気持ちにもなった。

多くの

店長とのコミュニケーションが難しい。もっとわかりやすい言葉で伝えればいいんだろうか。もっと丁寧に伝えればいいんだろうか。声の強弱がおかしいのだろうか。

聞いたことにダイレクトに答えてくれなくてしんどい。たとえダイレクトであっても、途中までしか答えてくれなかったりする。質問の、二度手間。

今日は、我が家に黒い子猫を迎えた。元気で人見知りせず、器用に飛んだり跳ねたりしている。運動神経がいい。はじめは警戒しているみたいで、絨毯のにおいを嗅ぎながら部屋の隅や棚の陰をうろうろしていた。でも、ご飯を食べると(というか先住のメイのご飯を勝手に食べた)ねこじゃらしで元気に遊ぶようになった。走り回っていた。それからしばらくすると、うとうとし始める。寝呼吸みたいになり、ゆっくり目を閉じたり開けたりしていた。

穂村弘の『にょにょにょっ記』読んだ。

「普段はあまり意識しないけど、よく考えたら、△△は○○なんじゃないか」というふうに、日常の当たり前を問い直すまなざしが好きだ。それは、その問い直す姿勢は、偉ぶっているわけではなく、むしろちょっと弱気。世界への問い直しが、そのまま自分への問い直しになっている。

名付け得る

お昼近くに目を覚ました。休みの日ほど早く起きたい(もったいないから)のに、失敗した。

今日は仕事用の半袖シャツを買ったり、証明写真を撮ったり、図書館に行ったり、車のガソリンを入れたりした。前半の2つですでに疲れて、図書館に入るときには軽い頭痛と目眩がした。借りていた本を返し、次に借りる本を求めて図書館中をさまよい歩いた。どこを見ても背表紙で、書かれている文字をどうしたって読んでしまうから脳が疲れて、ますます頭痛目眩は酷くなる。

ふらふらになりながら、詩のアンソロジーや関連書を数冊借りた。気になったまま読んでいなかったアメリア・グレイ『AM/PM』も偶然見つけて、借りた。

さいきんは小説よりも詩を読んでいる。詩の映す景色や、その根底にある問いかけや悲しみ、虚しさやるせなさ諦め、そういうものを読んでいるのだと思う。読んでいるというより、絵を眺めている感覚に近い。詩はわからないと思っていたが、解説のちゃんと載っているものを読むと、わかった気になれて嬉しい。

しかし、小説の、面白い小説に出会ったときの、お腹にずどーんと打ち込まれたような、取り返しのつかなさを久しぶりに感じたいなぁとも思っている。この小説に俺は、わずかだけれどたしかに変えられてしまった、人生の方向を少しだけ変更させられてしまった、という気持ち。

そのうち夜になって、明日から始まる平日に憂鬱としている。動悸がする。心音がどくどく聞こえる。スマホは時間泥棒という言葉を思い出さない日はないくらい、スマホを触っていると時間があっという間にすぎる。だから今日は、スマホの電源を落として過ごした。「あっという間」が「1.2倍速」くらいになった。

なぜ時間の進みがこんなにはやいのだろう。

不安だから?いろいろなことに慣れてしまったから?

こんな風にして、どんどん時の流れははやまるのだろうか。

 

水の色

ラジオを聞きながら眠った。正しくはラジオじゃなくて、気化熱さんのツイキャス。寄せられる質問に軽やかに、誠実に答える声が印象に残った。声の後ろに、ごまの遊ぶ音が聞こえた。半睡しながら、なきごえも聞こえた気がした。

職場でやけくそになって、少し大きい声で話してみたら、コミュニケーションがしやすくなった。典型的な威嚇の行為。

でも、そういうことをしないとやっていけないコミュニティは嫌だなぁと思ってしまう。あるいはこれが、適応ということなのだろうか。

闘うための言語

ローテーブルに向かいながらこれを書く。

 

自分の気持ちをもっと言葉にしたほうがいいと、漠然と思った。

 

なぜ自分の気持ちを言語化するのが苦手なのか、その理由を考えることに、意味はあるのだろうか。

だって、幼い頃から「教師や大人から言われたことをやっていればいい」と教えられてきたから。自分の気持ちなんてあまり大切にせず、ただ言われたことを、もしくはそれ以上のことを我慢して、ひたすら耐えて、耐えて耐えて、がんばった先に、目標の達成があると教えられてきたし、事実ちゃんと達成してきたから。

だから、自分の気持ちを言葉にするのが苦手。

でも、苦手とは言っていられない、生き抜くためにはある程度は身に着けないといけない。言いたくないけどこれも、「目標」なのかもしれない。

その目標を達成するための試みの場として、ここに書いている。

俺は、仕事をもっと出来るようになりたいと思っている。楽しみたいと思っている。楽しめば、いいという、問題なのかはしらない。

店長のあの、人を決めてかかるような態度が嫌だ。だってそういう人じゃんあの人は、というような。仕事の出来不出来と、人間性を、繋げて考えてしまうのだろうか。店長のあの、イライラを外に出す態度が嫌だ。あなたがそんなこと出来るのは、あなたが店長という立場の人間だからです。ふつうの社員はそんなこと、できません。部下をマネジメントする立場、失格だ。一人で仕事してると思ってるのだろうか。俺に任せても余計なことするだけだと思ってるのだろうか。それともこちらの、関与しない態度が気に食わないのだろうか。もっと積極的になればよいのだろうか。こちらが変わらなければ、向こうは変わらないのだろうか。いつも不利な立場の人間が頑張らないといけないのだろうか。会社的な上下関係はあっても、人間関係の構築は対等に行うべきだ。店長のあの、世界に対するなんでもわかったような眼差しが嫌だ。某先生が教採に受かるかどうかを、なぜあなたが「無理でしょ」と言えるのだろう。あなたは受かるのだろうか。この世界にはまだ自分の知らないたくさんあり、ふだん見知った人間にも同様に知らない部分がたくさんとあると、そういうふうには思わないのだろうか。個人的には、知らないことを知らないままでいることの勇気みたいなことまで考えられそう。

人は一人で生きているわけじゃない。店長とのコミュニケーションが足りないのだと思う。きっと、そうだ。安易な解決策だろうか?

蛙の声

ベットの上でこれを書く。

 

5月病が抜けない。さいきんずっと、ぼーっとしている。起きていても夢の中にいるみたいで、他の人の言ってることに俊敏に反応できない。ものが落ちそうなときも咄嗟に反応できない。身体の動きも、頭の動きも、とろい。

ストレスのせいだと、まずいちばんに思った。3ヶ月くらいずっと、仕事を辞めたい、楽しくないと、思っている。店長の言動に傷付き、悲しみ、いらいらする。うまくコミュニケーションがとれない。毎朝、会社に行きたくないと思いながら、会社に行く。

こんな生活でいいのだろうかと、ずっと考えている。このまま今の仕事を続けていいのだろうか、と。考えているからといって、解決策が浮かぶわけではない。人生の進路を四方八方塞がれてしまったような感覚。

そういう気持ちが折り重なって、5月病から抜け出せないのだろうか。

2年前の秋、新卒で入社した会社を辞めようか迷っていたときはどうだっただろう。

あのときも、頭は働かなかったし、今よりストレスはあった。パワハラを受けていたから。つらいと思う余裕さえなく、収まらない動悸や、眠れない夜、満員電車などをやり過ごすことしかできなかった。俺がどんな気持ちであろうと、どんなにこの場から消え去りたいと思っても、秒針は一刻一刻と進み、太陽は西に沈んだ。それだけが救いだった。

今は、そのときよりかはマシだ。マシだから、5月病レベルで「済んでいる」のかもしれない。理由はけっきょく、よくわからない。でも理由よりも、どうしたらいいのかが知りたい。

 

 

 

 

 

ないかもしれない

ベッドの上でこれを書く。

 

今日は一日仕事をした気がしない。けど、工数の多い仕事をちまちまやった。進捗感がないだけか。

自分の先送り癖を自覚した。長期の、やることの多い仕事を、普段の忙しさのせいにして先延ばしてしまった。

発達障害関連の記事や本、ビジネス書を読んでよく出会う「先送り」という言葉。自分には縁のない言葉だと、思っていた。たまたまそのとき、先送るような長期の仕事をしていなかっただけだった。

 

今朝は、9時間くらい寝たあとの今朝は、空っぽの頭で詩を読んだ。

レイモンド・カーヴァー「仕事を探そう」(村上春樹訳)

僕の新品の靴が戸口に置いてある。

ぴかぴかに光っている。

夢を見て寝ぼける僕は、ほんとうに眠っていたのか、それとも眠るように生きているのか。あなた寝ぼけてるのよ、もうお昼よ、と僕に呼びかける妻の存在も薄ぼんやりとしている。

新品のぴかぴかの靴の存在感だけが、確かだった。