闘うための言語

ローテーブルに向かいながらこれを書く。

 

自分の気持ちをもっと言葉にしたほうがいいと、漠然と思った。

 

なぜ自分の気持ちを言語化するのが苦手なのか、その理由を考えることに、意味はあるのだろうか。

だって、幼い頃から「教師や大人から言われたことをやっていればいい」と教えられてきたから。自分の気持ちなんてあまり大切にせず、ただ言われたことを、もしくはそれ以上のことを我慢して、ひたすら耐えて、耐えて耐えて、がんばった先に、目標の達成があると教えられてきたし、事実ちゃんと達成してきたから。

だから、自分の気持ちを言葉にするのが苦手。

でも、苦手とは言っていられない、生き抜くためにはある程度は身に着けないといけない。言いたくないけどこれも、「目標」なのかもしれない。

その目標を達成するための試みの場として、ここに書いている。

俺は、仕事をもっと出来るようになりたいと思っている。楽しみたいと思っている。楽しめば、いいという、問題なのかはしらない。

店長のあの、人を決めてかかるような態度が嫌だ。だってそういう人じゃんあの人は、というような。仕事の出来不出来と、人間性を、繋げて考えてしまうのだろうか。店長のあの、イライラを外に出す態度が嫌だ。あなたがそんなこと出来るのは、あなたが店長という立場の人間だからです。ふつうの社員はそんなこと、できません。部下をマネジメントする立場、失格だ。一人で仕事してると思ってるのだろうか。俺に任せても余計なことするだけだと思ってるのだろうか。それともこちらの、関与しない態度が気に食わないのだろうか。もっと積極的になればよいのだろうか。こちらが変わらなければ、向こうは変わらないのだろうか。いつも不利な立場の人間が頑張らないといけないのだろうか。会社的な上下関係はあっても、人間関係の構築は対等に行うべきだ。店長のあの、世界に対するなんでもわかったような眼差しが嫌だ。某先生が教採に受かるかどうかを、なぜあなたが「無理でしょ」と言えるのだろう。あなたは受かるのだろうか。この世界にはまだ自分の知らないたくさんあり、ふだん見知った人間にも同様に知らない部分がたくさんとあると、そういうふうには思わないのだろうか。個人的には、知らないことを知らないままでいることの勇気みたいなことまで考えられそう。

人は一人で生きているわけじゃない。店長とのコミュニケーションが足りないのだと思う。きっと、そうだ。安易な解決策だろうか?